教えのやさしい解説

 
師弟相対
 師弟相対(してい そうたい)とは、弟子が師匠に対して絶対の信をもって帰依し、随従することをいいます。
 本宗の信仰の要諦(ようてい)は、下種三宝の当体たる本門戒壇の大御本尊を帰命(きみょう)の依止処(えししょ)として、御本仏宗祖日蓮大聖人、第二祖日興上人以来、師弟相対して正しく伝持されてきた血脈仏法を信解(しんげ)するところにあります。本宗の僧俗は、この血脈仏法に随順する師弟相対の信心に徹(てっ)することが肝要なのです。
 大聖人は『御講聞書(おんこうききがき)』に、
 「能(のう)と云ふは如来なり、所(しょ)と云ふは衆生なり、能所各別するは権教(ごんきょう)の故なり。法華経の意(い)は能所一体なり」
(平成御書 一八六二頁)
と仰せのように、法華経は仏と衆生の一体不二(いったい ふに)の境界を説いており、その円融(えんゆう)の境界に即身成仏が成(じょう)ぜられるのであると説かれています。
 しかるに、この能所一体とは、仏と衆生、または師匠と弟子が同等であるとか同格であるというものではなく、日興上人が『佐渡国(さどのくに)法華講衆御返事』に、
 「なをなをこのほうもんは、しでしをたゞしてほとけになり候。しでしだにもちがい候へば、おなじくほくゑをたもちまいらせて候へども、むげんぢごくにおち候也」 (歴代法主全書一―一八三頁)
と御指南されているように、能化と所化、師弟子の筋目(すじめ)を正し峻厳(しゅんげん)な信心の境界をいい、この信心の確立によって仏と衆生、師匠と弟子が一体の境地となるのです。
 それは、第九世日有(にちう)上人が『化儀抄(けぎしょう)』において、
 「手続(てつぎ)の師匠の所は、三世の諸仏、高祖已来(いらい)、代々上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能々(よくよく)取り定めて信を取る可し、又我が弟子も此(かく)の如く、我に信を取る可し、此の時は何(いず)れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏(いちぶつ)也。是(こ)れを即身成仏と云う也云云」
(歴代法主全書一―三四一頁)
と御指南されているように、弟子が師匠にどこまでも信伏随従していくことであり、この師弟の筋目を正すことが事行の一念三千・妙法蓮華経の修行なのです。
 すなわち、宗祖日蓮大聖人を末法下種の教主・主師親三徳兼備(けんび)の御本仏と仰ぎ、大聖人の甚深の仏法を唯授一人の血脈相承をもってお受けあそばされた第二祖日興上人以来の御歴代上人を本師と仰いで仏道修行に励むことにより、末法の衆生は下種三宝と冥合(みょうごう)して成仏得道がかなえられるのです。
 この基本に則(のっと)った上で、御法主上人の任命により各末寺に派遣された住職・主管を、血脈法水への手続の師匠として、信行に励むのです。
 このような信心の筋目を正すとき、末法凡下(ぼんげ)の我々の生命に信心の血脈が通い、大聖人からの法水が流れ通って我が身の全体が妙法蓮華経の当体と顕現(けんげん)するのです。
 大聖人の下種仏法は、己(おのれ)の智解(ちげ)によって成仏するのではなく、師弟相対の信の一字によって成仏が遂(と)げられることを心得ましょう。